TOPへ

当たってぶち抜け!チャンスを掴むのも能力だ

当たってぶち抜け!チャンスを掴むのも能力だ
ピープル 2016/11/11

先達に学ぶ第11回は、ランニングライター+ランニングセラピストの肩書を持つ小松美冬さん。学生時代から競技に取り組むなかで、フルマラソンに出会い、東京国際女子マラソンでは招待選手として出場し国内順位8位の実績を持つ。バルセロナ五輪では、ラジオ放送の女子マラソン解説者として参加。自分にとっての「快」をみつけることが、最高のパフォーマンスにつながると話す小松さんに、スポーツと関わってきた半生とスポーツ女子へのメッセージを聞いた。

 

学生時代はテニス!

中学では陸上部だった小松さん。「自然の中を走るのが好きなタイプで競技場のトラックを走るのは違ったんだよね」と苦笑。漫画『エースをねらえ』の流行に影響され、高校では硬式テニスを始めた。部活だけでなくテニススクールにも通っていたそうだ。部活の根性主義に違和感を覚えた小松さんは、高校の倫理の先生から学んだ東洋思想に興味を持ち、「それに西洋の科学的視点を入れたスポーツ科学が日本のスポーツ界に必要では」と思い始める。

 

今でこそスポーツ科学部を擁する大学が増えたが、当時はそういった勉強の環境が整っていたのは体育大学か医学部。そもそも文系の小松さんは、スポーツ心理学を勉強しようと心理学科のある大学に入学する。大学では体育会テニス部に入部したが、付属高校からの内進組が多くレギュラーの座は遠いと感じてしまった。試合に出て、より上を目指したい小松さんは、練習の場を民間のテニスクラブに移す。冬はスキー場のホテルでアルバイトをしながらスキースクールに通い、それが縁で登山もするようになった。

 

フルマラソンとの出会い

 

フルマラソンとの出会い

ジャーナリストの父の影響を受け、編集の仕事に興味を持っていた小松さんは、企業で広報の仕事をしたいと考え銀座にある有名な宝飾店に就職する。しかし、入社して配属されたのは販売部門。知らない人に話しかけるのは苦手だったが、デパートの宝飾売り場で店頭販売をするうち、コミュニケーションスキルが磨かれお得意さんもできた。商品に夢を乗せて売るという会社の方針が好きだったと振り返る。

 

元々アウトドア派の小松さんは、1日中高級感の漂う屋内で過ごすうち、外が恋しくなっていく。普通の主婦がダイエットのために始めたジョギングにはまり、ボストンマラソンを完走するという実話を描いた映画『マイ・ライフ』(ジョアン・ウッドワード主演 1978年アメリカ)を観て、自分もフルマラソンを目指して走り始める。1週間に合計70km走れたら完走できると聞き、11月から一人で走り始め、時間を作っては走行距離を伸ばし、翌年3月にフルマラソンを3時間41分で完走した。この翌日、仕事に向かう途中で涙が溢れてきた。『マイ・ライフ』の中で主人公が語る「フルマラソンを完走したら、やりたいことが何でもできるような気がするの」という言葉の意味が体でわかった気がした。本当にやりたいことならコツコツできる。だから夢は思い続ければ実現できると気づいた。

 

ただのランナーじゃないランナーになりたい!

 

ただのランナーじゃないランナーになりたい!

自分のやりたいことは何かをあらためて考えた。「スポーツの楽しさを一般の人に伝えたい」書くことで、伝えることができる。宝飾店を退職し、編集プロダクションの門を叩いた。
まだ、20代前半の女子がフルマラソンを走るなど珍しい時代。「体力」と「根性」をアピールし、採用された。会社の机の下にはランニングシューズを用意し、走って原稿を届ける。年に1回はフルマラソンに出場。走る喜びを伝えられるランナーを目指し、当時の日記には「ただのランナーじゃないランナーになりたい!」と記していた。

 

1983年11月に開催された東京国際女子マラソンで、佐々木七恵選手が日本人初優勝を飾った。「日本人でも優勝できるんだ」小松さんは、東京国際女子マラソン出場を目標に据え練習を開始する。2年後、25歳で出場を果たし、3時間2分で完走した。
「もっと練習できる環境を作りたい」と専門誌のフリーライターになる。スケジュールを自分で組むことができるからだ。朝練をして、仕事をし、自分で走って原稿を届ける。文字通りのランニングライターだ。順調に記録を伸ばし、3回目の東京国際女子マラソンでは招待選手になった。招待選手になると日本陸上連盟の合宿に参加し、鍛えることができる。しかし、合宿直前に自転車で転倒し、頭を打つ大怪我を負ってしまった。合宿は断念したものの、大会出場は諦めたくなかった小松さんは、病院のリハビリ室でこっそり練習を再開。無事同大会に招待選手として出場し自己記録を更新、国内順位8位となった。

 

1年の海外生活

 

1年の海外生活

28歳の時、ワーキングホリデーのビザを取得しニュージーランドに行く。日常の中に大自然があり、走りたくなる環境が整っている。中長距離の世界的に有名なコーチで、ジョギングの創始者であるアーサー・リディアードさんに会えるかもしれないという淡い期待も抱いていた。この時の小松さんは、バルセロナ五輪出場を目標に自分でマネジメントから全てをこなす。クライストチャーチのランニングクラブでは、リディアードさんの愛弟子がコーチをしていた。その縁でリディアードさんに会えるチャンスが到来する。リディアードさんの著書を日本語に訳す許可をもらい、ランニングのコーチもしてもらった。恵まれた環境のもと、小松さんは2時間46分の記録を出すまでになった。

 

マラソン解説者

 

マラソン解説者

帰国後、小松さんの体に異変が起きる。10㌔以上走ると右足に力が入らなくなった。原因不明。1991年の東京国際女子マラソンを止む無く欠場する。この時、ラジオ放送でマラソンの解説をしないかと声がかかった。市民ランナーが解説をすることなど過去にない。自分らしい解説をしようと、市民ランナー中心の発信を思いついた。出場選手のスタートに至るまでの道のりを取材し、その人にスポットを当てた解説を試みる。
これがきっかけとなり、バルセロナ五輪のラジオ解説の仕事が舞い込む。目標にしていたバルセロナ五輪に、マラソン解説者として関わることになった。違う形での夢の実現だ。選手のご両親や恩師など色々な人に話を聞き、レースの数日前、本番の全コースを試走し、情報収集した。情熱だけで取材して回ったと振り返る。

 

ランニングセラピスト

自分が走れなくなって、走る世界のことを書くのが辛くなった。原因を突き止めようと調べるうちに、タイムや走行距離を追うあまり、痛みや動きづらさで、歪や動きの修正を訴えていた体の声を無視していたことに気づいた。「ゆる体操」や「操体法」の先生に出会い、体の歪を治すことを学んだ。そもそもの構造通りに体を使えば、人は転がるように移動し、身心を調えることもできると小松さんは言う。そのような体の使い方をアスリートやコーチに伝えたい。現在、ランニングセラピストとして、新たな情報発信をする準備を進めている。

 

スポーツ女子へのメッセージ

「無いものを足すのではなく、持っているものをよどみなく使うことを心掛けてほしい。自分にとって一番のコーチは、自分の中にある「快」(自分が心地よいと感じること)です。
健康を壊してまで取り組む競技はありません。一番いい動きができた時は、筋肉を使った気がしないといいます。情報に振り回されず、自分の体の声を聴いてください」。

 

自分が何をしたいか、常に目標に向かって体当たりで進んできた小松さん。人との出会いに恵まれ、チャンスを掴んできた。「当たって砕けろって、おかしいですよね」といい、自身のお子さんには「当たってぶち抜け!」とエールを送っているそうだ。

 

モチベーションを上げる曲  いきものがかり/ 心の花を咲かせよう

 

<プロフィール>
小松美冬(こまつ みふゆ)
ランニングライター+ランニングセラピスト®
小さい頃から走ることが大好き。OL1年目に自分らしさを求めてマラソンに挑戦。それを機に、走りながらスポーツ科学をわかりやすく伝えるランニングライターとして活躍。マラソン自己記録を2時間46分まで伸ばすも、無理な動きのし過ぎで体を壊す。そこから、人間のそもそもの在り方に立ち返った歩き、走りを求めつづけ、らせん状に流れるように動く(「らせん流RUN」)と、身心が自然と調和していくことを発見。その動きの気持ちよさを伝えたいとランニングセラピストに。自身も走る心地よさの自己記録を更新中。著書に『からだに効く本』(ランナーズ)・『シャル・ウィ・ラン』(窓社)、訳書に『リディアードのランニングバイブル』(大修館書店)、『キャッツ・ジム』(マガジンハウス)、構成した本に『高岡英夫のゆるウォーク』(学研)、編集協力した本に『動く骨 手眼足編」(ベースボールマガジン)などがある。バルセロナ五輪をはじめマラソンラジオ解説25回。2児の母。

 

RanRun Social

RanRunのソーシャルネットワークは、スポーツ女子インタビュー、大会取材やイベント風景、告知などの情報をリアルタイムでお届けします。