• 月. 5月 6th, 2024

体操で知った「試行錯誤の楽しさ」と「チャンスを掴むコツ」元体操日本代表 佐藤麻衣子先生

先達に学ぶメンターインタビューの今回は、世界選手権3回、アジア大会2回、オリンピック2回(ロサンゼルス大会、ソウル大会)に出場した元女子体操日本代表で、現在、日本女子体育大学准教授の佐藤麻衣子(旧姓 森尾)さん。体操のこと、選手時代、指導者として思うこと、学生へのメッセージなど話を聞いた。

体操との出会い
転勤族だった父の仕事の関係で小学校低学年時代を大阪で過ごした時に、たまたま体操教室に入った。その後、間もなく関東へ戻ることになったが、麻衣子少女だけは大阪に残り体操を続けることにした。なんとわずか小学3年生での決断。
後に「自分はその時に人生の選択をした」ことに気づいたそうだ。
家族と離れ大阪で体操漬けの2年間、練習が楽しくて楽しくて仕方がなかった。

家族の元に2年ぶりに戻り、都内の朝日生命クラブで金メダリストの塚原夫妻の指導を受けることになった。
しかし、そこで練習する人達の体操を見て衝撃を受けたという。
「これが体操競技か」という驚きと、自分のレベルとの違いに、体操が嫌になってしまった。
「体操を辞めたい」初めて思ったが、母はそれを許さず「体操は自分で選んだこと」と諭したという。この時、小学5年生だった。

体操競技の魅力
森尾麻衣子選手といえば、女子の段違い平行棒で、世界で初めてムーンサルトを成功させた選手だ。
後方二回転宙返りにひねりを加えるなどクルクルと回転する選手という印象がある。
彼女は、体操の魅力は「技の開発」と教えてくれる。

「どういう落ち方をすればいいか」「どうやって立てばいいか」「どうしのげばいいか」試行錯誤しながら自分の技を磨いていく。
その過程が楽しくて仕方なかったそうだ。
「オフシーズンが私のシーズンだったの」と笑顔で語る。

大概の選手は、オフシーズンを休む期間として気持ちも体も緩める。
しかし、佐藤さんはオフシーズンを技の開発期間とし、コンディションを整えていたため、体が緩むという期間は無く、大会中とは違う集中力を要したという。
とはいえ、常に緊張し続けることはできないので、ON・OFFの切り替えが上手にできていたのだろうと自己分析する。
佐藤さんは、技の開発を「考えていたことが成功する喜び」と表現してくれた。

選手時代を振り返って
中学生の時に全日本ジュニア選手権で優勝してから、メディアに注目されるようになった。
それ以後、試合でのプレッシャーとは違う、今までは無かった「何か」を背負った気がしたそうだ。

引退してその何かから開放された時、「なんて生きることは楽なのだ」と感じたと笑う。

中高一貫校を経て、日本女子体育大学に入学。
朝日生命クラブを練習拠点とし、大学では週1回の練習。
授業は一番前の席で受けるようにしていた。
同じように授業に熱心な学生達と友達になり、体操以外の友人ができたことが嬉しかったという。
この友人のお陰で、伴侶との出会いもあったそうだ。

体操部の友人とは、手書きの資料を書き写すかコピーをとるかという些細なことから、「たかが10円、されど10円」と「時は金なり」との論争へと発展し、気が付けば小一時間が経過していたそうだ。
そしてこの経験も懐かしい思い出だという。

今の学生も、目と目を合わせてコミュニケーションをしっかり取れるようになって欲しいという。

ロサンゼルスオリンピック二次予選に向けた練習時に、平均台から落下し後頭部を打つというアクシデントが起きた。
遅発性脳内出血で入院することになり、オリンピックは諦めようと思っていたが、周囲の動きは違った。
宙返りに伴う頭痛を我慢し、他の部位を傷めないように気を使いながらの参加となった。

もし後遺症が残っていたら、後悔では済まなかっただろうと振り返る。
だからこそ、「指導者としての教育」をする佐藤さんは、「止める勇気、止めさせる勇気」について学生に必ず話をする。

大学4年生の時、練習の拠点が朝日生命クラブから大学に移り、環境が変わった中で、ソウルオリンピックを目指すことになった。
企業の恵まれた施設での練習から、寒い体育館での練習。
しかし、「体をどう使うか」トレーニング計画を自分で立てることが楽しかったという。
「成果を収めたい」「勝ちたい」という思いが強くなり、最後まで絶対に諦めないと決めた。

ソウルオリンピックは補欠として参加することになった。
団体戦ではベテラン選手の存在が精神的に大きい。
ロサンゼルスオリンピックを経験している自分がベテランとしてチームに貢献する存在にならなければと意識するようになっていた。
そんな中で、直前に若手がケガをしてしまい、自分が競技に出ることになった。
戸惑いもあったが、「やることはやった」と振り返る。

全日本学生選手権(インカレ)4連覇の夢
ソウルオリンピック代表は決まっていたものの、インカレ4連覇を達成することも魅力的な目標だった。体操競技は減点法のため、失敗したら取り戻すことができない競技だ。
相手が失敗するか、自分が予定より高い得点を取らないと逆転はできない。

4連覇がかかった大会で、ライバルがミスをした。
チャンスだと欲をかいたことが仇となり、翌日は自分がミスをしてしまい4連覇達成はならなかった。
この時、中学時代に同じ失敗をしたことを思い出した。
欲をかいたために失敗した経験から学んだはずなのに、またやってしまったと悔いた。

「いつどのようにチャンスを掴んだか、チャンスを逃したか」を振り返り、次のチャンスに活かす面白さも競技にはあると佐藤さんは言う。

スポーツを通して培った力
体操は、個人競技でありチーム戦でもある。
現役時代は、個人の実力を発揮することがチームへの貢献だと信じていた。
試合経験を積む中で試合の怖さを知り、メンタルの大切さとタイミングを読む力がついたという。

ONとOFFの切り替えのタイミング、頑張るべき時と力を抜く時のタイミングなどを考える力がついた。今、指導するうえでも、「厳しく言う時」「褒める時」「見守る時」などのタイミングを掴むのに役立っていると言う。
佐藤さんは学生に対し、中高生の予選クラスの審判の指導もしている。
審判は減点法で行うと、自分が偉くなったような錯覚が起き、上から目線になってしまう。
加点法でいい所を見つけるようにと指導している。

学生へのメッセージ
「誰もがリーダーになる必要はないが、リーダーにならなければならない時もあります。そのために色々な経験をしておくことが大切ですね。そして成功も失敗も含め経験したことを記録しておくことをおススメします。メモ書きでよいので、その時自分がどう思ったかも一緒に書いておく。そうすることで、自分が何をして何をしていないかを把握できます。自信のあることも欠点もわかったうえで、社会に出て欲しいです。」

<プロフィール>
佐藤麻衣子(さとう・まいこ 旧姓 森尾)
1967年2月18日生 神奈川県出身
日本女子体育大学卒
鹿屋体育大学助手
日本女子体育大学准教授

<主な戦績>
世界選手権大会(1983年、1985年、1987年)
ロスアンゼルスオリンピック(1984年) 団体6位、個人総合11位、床7位
ソウルオリンピック(1988年) 団体12位