• 水. 5月 1st, 2024

先達に学ぶ第9回は、1976年に開催されたモントリオールオリンピック女子バレーボール金メダリストの吉田昌子(旧姓 高柳)さん。現在もバレーボールの普及や後進の育成など精力的に活躍されており、「今日も午前中はバレー教室やってきたんですよ」という吉田さんに、現役時代のこと、現在の活動のこと、後輩たちへのメッセージを聞いた。

バレーボールにのめり込んだ青春時代
大分県宇佐市出身の吉田さんは三人姉妹の末っ子。負けん気が強くて、姉たちにも挑戦していく子どもだった。
実家は兼業農家で田畑の手伝いも当たり前。
「今だから言うけど、イヤでイヤで。でも、忍耐力は鍛えられたし、筋トレにもなっていたんでしょうね」と笑う。

地元の中学に進学し、軽い気持ちで始めたバレーボールにのめり込む。市の大会で活躍して、中津南高校の大木監督から「うちでやらないか」と声がかかった。監督の自宅にチームメイト9人で住み込み、7時間授業のあと4~5時間練習というハードな練習が実って春高バレーで全国制覇する。

高校卒業後は大学に進学して教員を目指すつもりだった。
しかし高3の国体が終わって練習から離れると、無性にバレーボールが恋しい。
それを見た大木監督が「大学のバレー部では物足りないだろう、実業団へ行ってみないか」と、日立に紹介してくれた。

二軍から全日本、そして金メダル
当時の日立は国内最強の女子バレーチーム。全日本チームも日立の選手が中心になっていた。
入社当初2軍だった吉田さんは、日本で一番強いチームが練習しているのを間近で見ていた。
バレー部員は、会社の名前を背負った広告塔でもある。仕事を免除され、一日中ひたすら練習する日々。

「レギュラー以外の選手は、レギュラーの練習の前と後に、より長い時間練習します。一日に10時間とか。そのほかに先輩のマッサージなどもあります。レギュラーになれば楽できる、なんて思っていました」

全日本入りしたのは社会人3年目。
ケガをした選手の代わりに入って実力を認められ、レギュラーをつかんだ。

「キッカケはどこにあるかわからない。出て行けるかどうかもわからない。でも、諦めないことはとても大切」と吉田さん。
そして翌1976年、モントリオールオリンピックに出場し、金メダルに輝いた。

この監督について行こう
当時、全日本女子バレーボールを率いていた山田重雄監督について語る時、吉田さんの口調が熱を帯びる。

「厳しくてジェントルマンで、素晴らしい男性でした。同じことを伝えるのでも、相手によって声のかけ方が違う。選手一人一人を本当によく見ていたと思います」
「スポーツだけできる人間はダメ」というのも、山田監督の持論だった。
「コートの中では男っぽく、コートから離れたら誰よりも女らしくしなさい」と言われていた。

この頃、山田監督はチームの食生活の改善を始めた。
「金メダルを目指すのだから身体にいいものを」と、白米が玄米に、食パンは専門店の黒パンになった。野菜は肉の5倍、甘いものと炭酸飲料は禁止だった。
早朝ランニングとウエイトトレーニングも始まった。
食事との相乗効果もあり、驚くほど筋肉がついた。これが金メダルへの大きな足掛かりになった。

「みんなが、監督の言う通りにすれば勝てる、大丈夫と思っていた。選手がそう信じているチームって強いんです。私たちはメダルを獲れると思っていたし、実際、獲れました」と吉田さんは笑顔で振り返る。

バレーボールから学んだ人間関係・メンタル
「バレーボールの一番の魅力はチーム競技だということ」と吉田さんは言う。
自分がちょっとミスしても仲間が助けてくれる。それに感謝して、もっと頑張ろうとモチベーションが上がる。
とはいえ、チームの中にも競争はあるし、全員と気が合うわけでもない。
モントリオールのチームでは、吉田さんは最年少。
個を主張しすぎずに周りを見て、自分の役割は何かを考えて行動する。
その役割分担がうまくいっているチームは強い。

「変にへりくだったり、上手く立ち回ろうとせずに、先輩を敬う気持ちを持って、自分から気を利かせる。そうするとプレーも上手くなります。気を利かせることって、つまり一歩先を読むこと。これ、仕事でも同じことが言えると思いますよ」

落ち込んだ時には自分で立ち直るのが基本だという。
くじける原因を考え過ぎずに、常に先を見る。ポジティブに生きることを心がけている。

「試合前に緊張しない人はいない。でも、コートに入って笛が鳴って『お願いします』と言った瞬間にいつもの風景に戻る。スポーツ選手はみんなそうじゃないかな。それと、ミスは誰でもします。試合でミスしたからって落ち込むのではなく、練習でミスした時に落ち込んで修正すればいい。試合と練習は、本当は同じものなんです」

金メダリストだからできる社会貢献を
モントリオールの金メダルメンバーを中心に立ち上げたのが、NPO法人バレーボール・モントリオール会、通称モン・スポだ。今年で10周年を迎える。
バレーボールの普及や啓蒙活動のほかに、「女性スポーツ勉強会」を年に数回ペースで開催。女性とスポーツをとりまく幅広い話題をとりあげて毎回盛況だ。
勉強会では、メダリストたちが持ち寄った金メダルが展示され、参加者はそれに触れることができる。そっと持ち上げて、重さを確かめる人もいる。

「私、うちの自治会の秋祭りでも『金メダルさわってみよう』コーナー作るんです。だって、せっかく私が町内に住んでいるんだから」と吉田さん。
子どもが『マラソン大会で金メダルもらったよ!』と、金色の折り紙で作ったメダルを見せてくれることがある。
吉田さんは「すごいねー。こっちのメダルはもっとすごいよ、さわってみて」と金メダルを差し出す。
子どもの目が輝き、「これ欲しい、目指したい!」と夢が膨らむ。
その様子を見ているのが、とても嬉しいのだという。

将来は、誰もがいつでも、様々なスポーツに接することができる環境を整えたいと言う吉田さん。
実は、引退後にテニスやゴルフをやってみたことがある。

「それがねえ、手で持った道具の先にボールを当てるというのがダメみたい。動いているボールをジャンプして打てるのに、なんで止まってるボールに当てるのがヘタなの?って言われちゃうんですよ」

スポーツ女子へのメッセージ
「スポーツでやってきたことは決して無駄にはならないし、社会で役にたつ場面がたくさんある。苦しい練習をしてきたんだから、社会人になってからの困難も乗り越えられないことはない。たまたまレギュラーに選ばれない人もいます。でもそこに行くまでに同じだけの努力をしているんだから、その先の人生では必ず報われるはずです。練習はウソつきません」

モチベーションのあがる曲
いきものがかり『歩いていこう』『YELL』など。
「歌詞が好き。その時その時の自分が勇気づけられる気がします」

<プロフィール>

吉田昌子(よしだ・しょうこ 旧姓高柳)
1954年9月13日生 大分県出身
競技 バレーボール(現役時代の所属 日立)
2002年より東京都小平市教育委員
モン・スポ(NPO法人バレーボール・モントリオール会)代表理事

<主な戦績>
1976年モントリオールオリンピック 金メダル
1977年 ワールドカップ 金メダル
1978年レニングラード世界選手権 銀メダル

<モン・スポ>
1976年のモントリオール五輪女子バレーボールの金メダリストとジャーナリストが中心になって作られたNPO法人。子供たちにスポーツの楽しさを伝え、女性スポーツやオリンピックについてのシンポジウムを行い、さらには国連UNHR協会とコラボして難民支援を行っている。

 HP http://montreal.sports.coocan.jp/

<アジアスポーツフェスタ2016>

 開催日 2016年11月6日(日)
 会場  神奈川県立横浜国際高校

<ライター>
只木良枝(ただき・よしえ)
モチベーションが上がる曲 ブライアン・アダムス/Summer of ’69

2016年10月掲載記事リライト